西へ向かう人、東へ向かう人
「知らない所へ放り出されてしまった」そんな高揚感と恐怖が入り混じった感情は一人旅の醍醐味なのだろうか。
旅に出たいという尽きることのない欲はある種の病だ。
丸い地球の水平線に何かがきっと待っている・・・。そんなひょっこりひょうたん島のような好奇心と、未知との遭遇への一抹の不安。
場数を踏んだ分だけ胃腸の免疫力と同様に旅の免疫力はつき、人は更なる刺激を求め知らない土地を目指すのだろう。
サラエボから出発したバスが到着した先は、かつてユーゴスラビア連邦の首都であったセルビアのベオグラード。
この日いつになく私は緊張していた。それは何故か。
バスの車窓から異常に長い行列ができているのを目にしたからである。
公園にできた行列に並ぶのは、浅黒い肌に彫の深い濃い顔立ちをした細身の男たち。ぱっと見ただけでも100人以上いるだろうか。
スラブ系民族であるセルビア人ではない、どこからかやってきた人々。
違和感のある光景から漂うのは決して幸福なものではなく、切迫したものだった。
異様な現場に不安を覚えながら宿へと急ぐ。日が沈みかけていることも私の不安を駆りたてる。
行列の正体はなんとなくわかっていた。「もしかしたら彼らはシリア難民なのかもしれない」と。
到着した安宿のドミトリーにアフロヘアーの大柄なアフリカ系男性が寝そべっていた。東欧でアフリカ系の旅人と出会うのは初めて。おそらく彼はフランスかイギリスから来たのだろうと予想し「どこから来たの?」と尋ねると彼は低い声で「I from Cuba」と言った。
セルビアでキューバ人!?予想が大きく外れ、頭の中で無数のクエスチョンマークが踊り出す。そもそもキューバは海外渡航が簡単にできないため、国外でキューバ人に出会うことは大変珍しい。亡命者が多く住むアメリカならまだしも、ここは東欧のセルビアだ。
一年前にキューバを旅行した私は、目の前の珍しい旅人をたちまち質問攻めにした。
キューバ第二の都市、サンティアゴ・デ・クーバ出身のジョーは、4年前からヨーロッパを転々としているらしく、つまりは亡命したようだった。少なくともあと6年は故郷に帰れないという。
最近までサラエボのメキシカンレストランで1年間働き、その前はオランダに数年間。今回はベオグラードで仕事とアパートが決まるまで、この宿に滞在する予定だという。
料理人と名乗ってはいるものの、労働ビザを持っているようには見えず、おそらく不法労働をしながら生計を立てているようだった。
とても40歳には見えない若々しい容姿は、ジャズトランぺッターと言われても信じてしまうような抜け感のある洒落た雰囲気で、さすがキューバ人だと小さく唸る。
彼らのずば抜けたセンスはDNAに組み込まれているとしか思えないからだ。
ジョーは私が世界中を一人旅していると知ると「君の話を聞かせてくれ!」と喜んだ。私たちは興味のある国や見たいものが似ていたため、すぐに意気投合。
今まで食べたにゲテモノの話を皮切りに、旅の話に花が咲く。
大きな目をギラギラさせながら「多くの人はパリやローマに行くけれど、全然興味がない。観光地化された所じゃなくてもっと普通の市民の生活が見たい。ここみたいに外国人の少ない国や変わった国のね。いつかイスラエルと北朝鮮に行ってみたい。あの特殊な国の人々がどうやって暮らしているのかを見てみたいんだ。」と熱弁するジョーに大きく頷いた。
そして一年前、オールドハバナの安宿の窓から見下ろした景色こそ、紛れもなく特殊な国で生きる普通の人々の日常風景だったと思い出す。
21世紀の数ない社会主義国家キューバは、皆が等しく貧しい国。
革命がもたらしたのは、飢え死にすることも億万長者になることもない究極の平等。教育も医療も全て無償、職業格差や人種差別のない社会は表面的に見れば理想的でもある。
しかし音楽と踊りに溢れる常夏の国の明るさの影には、万年の物資不足やインフラの遅れが潜む。
また厳格な共産主義国家のこの国では、最近まで一般市民がインターネットを利用することもできなかった。すなわち情報鎖国のようなものだ。
当然自由な国外渡航は難しく、そもそも20ドル程度の月給では夢のまた夢である。
私は陽気にのんびり生きるキューバの人々をむしろ自分たちよりもはるかに豊かなのかもしれないと感じることも多かったが、外の世界を見るチャンスのない一生は、ジョーのように好奇心溢れる人間にとって残酷でもある。
ジョーはアメリカとの国交回復や、昨今のキューバの変化についても「結局政治が変わらなければ、庶民の生活は何も変わらない」と母国に対して辛辣だった。
彼が亡命した理由は出稼ぎなのか、自由を求めてなのか、はたまたその両方なのかはわからないが、どちらにせよ人生を懸けた大きすぎる決断の末に至る今なのだろう。
それに引き換え、特別なスキルや能力もなく、大きな覚悟を背負うこともない、好奇心だけで簡単に国外に出ることのできる自分がとてつもなく呑気な存在に思えたのだった。
そしてふと、さっき目にした行列のことを思い出す。「ベオグラード駅の近くで長い行列を見たんだけど、あれってもしかしてシリア難民?」と尋ねるとジョーは「Yes」と言った。
翌日どうしても気になり、もう一度ベオグラード駅周辺へと向かった。
17歳くらいの青年たちがゴミ箱を漁る姿や、道の脇に薄汚れたマットレスを敷いて眠る男性の姿。立体駐車場を寝床にして生活する人々。
駅に近づくにつれ、やるせない場面が視界に飛び込んでくる。
昨日私が見たのは炊き出しに並ぶ行列だったのだろう。数名の男性がベンチで眠っているだけで、公園は閑散としていた。
沢山の人が行き交う駅前で、彼らの存在はどこか現実味を帯びていなくて、けれども紛れもなく現実であった。
夏が終わり、これから長く厳しい冬がやって来る。今以上に過酷な暮らしが待っていることは容易に想像がつく。彼らはどうなってしまうのだろうか。
駅の周辺を歩いて気づいたことは、見かけるのは男性ばかりで女性や子供はどこにもいないということだ。疑問に思い周辺の路地を散策してみることにした。
しばらく歩いているとヒジャブをまとった女性や小さな子供が歩いている姿を見つけ、後をついていく。
すると難民支援センターのような施設があり、施設の職員らしき人と遊ぶ小さな子供たちが見えた。
知らない土地で明るい未来が見えない中、それでも子供が子供らしく笑う声と彼らに手を差し伸べる人がいることにささやかな安堵を覚えるのだった。
旅に出る前、バルカンルートと呼ばれるルートを辿り、大勢の難民たちがドイツへ向かう映像を毎日のようにテレビで見る時期があった。
しかし私が訪れた2016年当時、セルビアと隣国ハンガリーの国境は封鎖され、西を目指す多くの難民たちはそれ以上進めず身動きがとれない状況であった。
西ヨーロッパを目指す人々は、経済的に豊かとは言い難い東欧のセルビアで難民申請せず、いつ開くかわからない国境の再開を待っていたのだ。
このとき既にハンガリーを訪れていた私は、文化も宗教も大きく異なり、また決して裕福とは言えないハンガリーがこれ以上難民を受け入れないための措置を取ったことは、仕方がないことだと感じていた。
だからその後の国民投票で難民の受け入れ反対が98%だったことも、驚きはしなかった。ハンガリーの人々の決断を誰も批判することはできない。
ただ道徳心や同情心だけでは何も解決できないとわかっていても、実際に路頭に迷う彼らを見たとき、打ちのめされてしまった。
なぜなら多くの難民が目指すルートは、私がドイツから今日まで辿ってきたルートであり、これから私が目指すルートは彼らが辿ってきたルートでもあるからだ。
ヨーロッパからトルコに入り、ヨルダン、イスラエル、そしてイランと中東エリアに突入する私は、彼らの故郷にどんどん近づいていく。
安全でより良い暮らしを求め西へ向かう人々、好奇心と刺激を求め東へ向かう私。
同じ時代を生きているはずなのに、彼らと私では何が違うというのだろうか。
世界はあまりにも不公平で理不尽だ。
けれど私が一番憤りを感じるのは、同情したり胸を痛めても結局は何もせずにただ通り過ぎていく自分自身なのかもしれない。
ジャーナリストの真似事のような気分で近づいても、結局ただの傍観者でしかない自分。
果たして私にできることはあるのだろうか。考えれば考えるほど無力さが浮き彫りになるけれど、あるとすればそれは何か。
それは彼らの存在を自分の知っている世界から消し去らずに生きていくことなのかもしれない。一度は交差した私と彼らの人生。
彼らを無かったことにはしない。そして世界中で起こる様々な出来事の蚊帳の外で生きていてはいけないのだと強く思った。
【国会議事堂前に掲げられた旧ユーゴ内戦の犠牲者のポスター】
宿に戻るとジョーがいた。街で私を見かけたが、名前を忘れて呼び止められなかったらしい。全然気が付かなかった。
実は大きな目をギョロギョロと動かし、身振り手振り喋る姿がコントをしている時の香取慎吾にそっくりで、私は笑いを必死に堪えながらも最終日に写真を撮らせてもらおうと企んでいたのだ。
「あなたに似ているスーパースターが日本にいるの!」と言うと「冗談だろ?どうやったら日本人が俺に似るんだ!」と言うので画像を見せると「全然似てない!」と大笑いだったけれど、ポージングを真似してノリノリで写真を撮らせてくれた。
とびきりのキューバンスマイルは周りの人を幸せにする。
しかし私が明日スロヴェニアに行くことを告げると「クソッ!スロヴェニアなんか大っ嫌いだ」と突然顔をしかめた。
どうやらヨーロッパ各地を転々とする中、入国したスロヴェニアでビザだかパスポートだかに不備があったらしく1ヶ月間投獄された過去があるらしい。
だから彼にとっては苦い思い出のある国だったのだ。
一見のらりくらりと明るく渡り歩いているように見えるけれど、この笑顔の裏にはきっと私には想像もつかないような体験や悔しい思いを沢山してきているのだろう。
彼が果たして今幸せなのかも私にはわからない。
ジョーのバックグラウンドはやはり謎に包まれていて、これ以上深く探ることは気が引けた。
私はセルビアという小さな国で、自分の生まれ故郷から遠ざかり簡単には戻ることができない人々に出会った。
駅前で寝起きし、いつ開くかわからない国境が開くのを待っているシリアやアフガニスタンの人々も、亡命という形で国を出てヨーロッパを移動するキューバ人のジョーも、大きな決断をし、決して後戻りできないという側面では似ているのかもしれない。
人は生まれる国を選べない。生まれてくる時代を選ぶこともできない。
「だからそれはその人の運命なんです」と言ってしまえばその通りかもしれない。
この旅の中で「日本に生まれてよかった」と何度もそう思ってきた。
けれど果たしてそれだけでいいのだろうか?「日本に生まれてよかった」で完結していいのだろうか。私はいつも葛藤する。
「おー!今夜セントラルのクラブでサルサナイトが開催されるらしい!一緒に行こうよ!」とジョーに誘われたが、タイミングが悪すぎた。
既に寝る支度をしていたし、私は明日の早朝のバスで彼の大嫌いなスロヴェニアへと向かうのだ。
皆それぞれ色々な事情を抱えて生きている。笑えないことも沢山あるけれど、どうか今夜くらいは全て忘れて、華麗なステップでベオグラードの夜を鮮やかなキューバンナイトに変えてほしい。
ダンスフロア中が轟くような情熱的なサルサと、とびきりのキューバンスマイルを。
そしてもう二度と会えないであろうこの陽気なルームメイトが、どこかで幸せに生きていくことを願うのだった。
ウェルカム・トゥ・サラエボ
かつてこの世界に「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と呼ばれる多様性に富んだ国があった。
七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。
私がその存在を知った時、既に「旧ユーゴスラビア」と呼ばれ、その得体の知れない名前の響きが子供心に不気味であった。
それから十数年後、私は旧ユーゴの一国であるボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪れる。
9月に差しかかった東欧は夏に終わりを告げ、秋の気配がすぐそこに。
曇った薄暗い空の下に建ち並ぶ団地群。窓からは人々の生活感が漂っているのに、外壁には無数の銃弾の痕。
「とんでもない所に来てしまった」そこだけ時が止まっているような景色を見て、最初に思ったことだった。
サラエボは歴史に翻弄された街だ。ビザンツ帝国、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国と支配者が変わるたびに、キリスト教、イスラム教と宗教も変化してきた。
ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島の中でも、第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件が起きたこの地は、争いの矢面に立たされてきた悲劇的な場所でもある。
しかし歴史が作り上げた多様性に富んだ文化は、この国の持つ複雑さの象徴でありながらも、私たちを魅力する。
教会、モスク、シナゴーグが同じ地区に点在する街並みは、まさに文明の十字路。文化が交じり合ってきたことを肌で感じる。
旧市街に残るオスマン建築は、大好きなトルコを彷彿とし、立派なカトリック大聖堂を横切れば、やはりここはヨーロッパなのだと思い出す。
街を囲む緑豊かな山々は新鮮な空気を運び、移動疲れの私を癒した。
サラエボは異色の旅行情緒を体験できる素朴で良い街だ。
しかしこの場所は、ユーゴスラビア連邦が解体されていく中で勃発し、1992年から95年の間にボスニア全土で20万人以上の犠牲者を出したボスニア紛争により、再び悲劇の舞台となる。
私はこの内戦についてもっと知りたくて、「GALLERY 11/07/95」という資料館を訪れた。
山に囲まれたサラエボはセルビア勢力に包囲され、町は砲撃や銃撃に遭い、約1万2000人の死者を出した。その85%は市民だったという。
86年に開催されたサラエボ冬季オリンピックからわずか数年後。こんな世界になるなんて誰が想像しただろう。
各地で行われていた民族浄化の中でも、スレブレニツァの虐殺に関する資料や写真、被害者の証言映像に体力も気力も奪われていく。
今でも家族の遺骨を探している人々がこの国には沢山いる。
吐き気すらする重い気分の中、私は3時間近く館内にいた。
そして最後に見た「Miss Sarajevo」というドキュメンタリーを通して、絶望のような世界の中にも些細な日常が存在し、普通じゃない環境の中を普通に生きようとする人々がいたことも知った。
あるジャーナリストが、戦場となったサラエボで生活する市民を取材した映像だ。
爆撃音が響く中、地元の女子大生が案内した先は秘密の地下室。
ここは学び舎を爆撃された学生の学びの場となったり、時にはクラブやライブハウスへと姿を変える。
人々は踊り、音楽を楽しむ。ミス・サラエボコンテストだって開催する。
そこには、たとえ戦火の中であろうと青春を謳歌しようとしている若者たちの姿があった。
壊れた車の中で流行歌を合唱し、友人に囲まれはしゃぐ、13歳くらいの活発な少女はとても聡明で、一生懸命な英語で自分たちの置かれている状況を伝える。
「私はムスリムだからモスクに行く。でも時々教会にも行く。神様は二人とか三人とかじゃなくて神様は神様だ。」と話し、自信に満ちた表情で「God is god」と言い放つ彼女はヒーローのようだ。
多感な年頃を戦場で過ごす少女の目に、この争いはどう映ったのだろう。
不条理の中でそれでも人生を謳歌しようとすることは、暴力に対する彼らなりの精一杯の抵抗だったのかもしれない。
けれども現実は残酷だ。戦況はますます過酷になり、最悪の状態で終戦を迎える。
廃墟化した街の中で憔悴しきった少女は最後の取材を受けていた。
「沢山のことが変わってしまった。友達も沢山死んでしまった。今は本当に最悪の状況。なんて言っていいのかわからない。本当にごめんなさい。今は何をすればいいのかわからない。」
戦争は容赦なく何度も若い健気な心を踏みにじったに違いない。
しかし最後にはジャーナリストを気遣い、「本当にありがとう!あなたたちに幸せが訪れますように!」と笑顔で手を振り、気丈に振る舞ってみせた少女がやっぱり私にはヒーローに見えた。
今彼女がどんな風に成長し、どんな暮らしをしているのかはわからない。
戦後、民族のアイデンティティの確立を謳い、強い信仰心を持つ人が増えたという。
民族意識は高まり、所属民族の違う隣人同士が仲良く暮らしていた時代には結局戻らなかった。彼女は今でも「God is god」と思うだろうか。
皆それぞれ信じる神は違っても、どんな神様も神様であるのだと。
こんなにもシンプルで複雑な言葉はない。
戦後20年も経てば、街には立派なショッピングモールが建ち、人々は西欧資本の大型スーパーや、ドラッグストアで自由に消費を楽しんでいる。
かつて昼夜問わず女も子供も関係なく、見つかった者は即座に射撃されたという通称スナイパー通りは、今はおしゃれをした若者が闊歩する。
銃痕残る建物以外にこの街で戦争を感じるものはない。けれど人の心はどうなのだろうか。
ある日、宿のロビーで受付のお兄さんに「中国語話せる?」と話しかけられた。昨夜チェックインした中国人団体客に英語が通じず困っているらしい。
「ごめん、私日本人なの。」と答えると「君は日本から来たのか!」と嬉しそうに私の近くに座った。
そして興奮気味に「日本人に会ったら質問したかったことがある!なあ、ヤクザって本当にいるのか?!」とド定番な質問をしたのである。
旅先で何回この質問をされただろうか。皆、YAKUZA”と”SAMURAI”が大好きだ。
しかし続く彼の質問は想像の斜め上をいく。
「日本の神風特攻隊ってすごいよな。必ず死ぬんだぞ?どうして彼らはヘルメットを被る必要があるのか?行ったら戻ってこないのに。」「ヒロシマについても知ってるよ。行ったことはある?今の広島はどうなっているの?」と神妙な面持ちで聞いたのだった。
私たちはしばらく日本の戦争の話をし、その後ボスニアの話へと変わっていった。
私が昨日行った資料館のことを話すと、彼は苦笑いをし「あそこは主にスレブレニツァのことばかりだからね。でもサラエボだって本当に悲惨だったんだ。」と言った。
そして、「でも正直そのことについて話すことに疲れているんだ。ここに来る人は皆、戦争のことを尋ねるけど僕は少し疲れている。もちろん僕たちは自分たちの国で起きたことを覚えているし、これからも絶対忘れない。でも毎日毎日そのことについて考えるのはとても疲れるんだ。例えば君が毎日ヒロシマ、ナガサキについて聞かれたらどう思う?」と言った。
私の知っている戦争は体験していない歴史だ。けれど彼の知っている戦争は歴史ではなく体験なのだと思い知る。
現在のボスニア・ヘルツェゴビナは、ボスニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人主体のスルプスカ共和国という現状二つの構成体により国が成り立っている。
お互いに独自の大統領、立法府を持っていて、郵便制度をはじめ細かいルールも違う。一つの国土に二つの国があるような状態だ。
そしてその境界線に位置するサラエボを起点に、民族の住み分けが行われている。
けれどバスでスルプスカ共和国側に行った時、境界線がどこにあるのかわからなかった。セルビア人もボスニャク人もクロアチア人も私の目には同じ顔に映る。
言語だって方言程度にしか違いはない。民族主義を理解することは、日本で生まれ育った私には非常に難しいことだった。
「ボスニャク人のあなた達がスルプスカ共和国に行くことは可能なの?」と尋ねると、それは可能だという。しかし「何かトラブルが起こるかもしれないから行くことはない。」と言った。
昔は境界線に検問所があったが、今は存在しないため自由に行き交いできる。
実際ボスニア側にある旧市街や街の中心部では多くのセルビア人が働いているという。だからお互いが全く交じわらずに暮らしているわけではない。
しかし彼がむやみにセルビア側に行かないことからもわかるように、両者には今も大きなしこりがあり、本質的な解決に至っているわけではなく、ただただ歪な状態で国が存在しているのだ。
今はお互いに挑発することなく静かに過ごしているが、その緊張感はずっとあり、着火しないようにしているだけで火種は充分に持っているのだ。
「ここに来る前に紛争のことについて調べた。知らないことだらけだったからここに来てからも勉強した。大きなショックを受けたし、とても恐かった。多分私は日本に帰ったら家族や友達にここで知ったことを話すと思う。だけどね、それだけじゃなくてボスニアが自然豊かでとてもきれいな場所で、親切な人が沢山いるってことも話すつもりだよ。」と私は言った。
暗い過去を感じながらも、少しずつ復興し発展している街並み。歴史遺産と呼べる建築や、美しい自然を満喫した。
そしてボスニア側でもセルビア側でも、沢山の親切を受けた。だから私は胸を張ってここが良い場所だと言える。
すると彼は、「そうなんだよ!確かに僕らの国は酷い歴史があった。戦争があった。でもそれだけじゃない。ここは自然が沢山あって本当にきれいな場所なんだ。お願いだ。どうかそのことを皆に伝えてくれ!」と言った。
彼にとってこの場所は、たった一つの美しい故郷だ。
「そうだ、ここで日本人向けに旅行会社をやりなよ!儲かるぜ?」とニヤリとした後、「まあ正直ここは旅行で来るには本当に良いところだね。でも住むとなったら糞みたいだよ。」と彼は言った。
「例えば?」と聞くと「それを話してたら明日の朝になっちゃうな」と笑い、「僕たちの国はとっても複雑なんだ」と言い残すとタバコを吸いに行ってしまった。
もちろんこれは彼個人の意見だ。けれども一人の名もなき若者の声に私はリアルを感じる。
美しい故郷を無条件に美しいと言えないやるせなさ。
この国に本当の意味での平和は、まだ訪れていないのだろう。
けれども少しずつ進んできたから今がある。だから過去だけではなく、この国の今を見て欲しいと思うのは、ある意味当然のことなのかもしれない。
旅行者はピンポイントでその歴史だけを見ようとする。私もその1人だ。
しかしここに生きる人々は紛争前も渦中も、終結したその日から今日までもがずっと日常の続きだ。
決して忘れたわけではない。でも人はどんな状況下だって生きていかなくてはならないし、いつまでもうずくまっているわけにはいかない。
だから訪れた者が今のこの国を知ることは、とても大事なことなのだと思う。
最終日、山の上から街を見下ろした。そこから見るサラエボはとても美しかった。
けれど見下ろす街並みで一番目立つのは墓地だ。そしてその墓標の多くが1992年から95年にかけてのものだった。
ボスニア紛争は20世紀末期に起きた出来事だ。たかだか20数年前のヨーロッパの話。それは私が生まれた年でもある。
歴史に翻弄された街に悠然とそびえたつ山々は、下界で起こる愚かな争いをじっと見つめてきたのだろうか。
「お前たち何やってるんだ?」とずっと静かに問い掛けられているのだとしたら、私たちはその声に気づかないのか、それとも気づかないふりをしているのだろうか。
いつの日か、もしこの地で再び争いの火が点いた時、この無数に広がる墓標たちが大きな大きな抑止力となり、もう誰も血を流したりしなくていい世界になって欲しい。
彷徨う旅人
数ある好きな映画の一つに「オズの魔法使い」がある。
虹の彼方に自分が望む世界があると思っていた主人公ドロシーが、オズの魔法の国での大冒険を経て、”There's no place like home”つまり「我が家に勝る所なし」と気づき成長する物語だ。
ルビー色の靴のかかとを三回鳴らしながら「There's no place like home」と呪文のようにドロシーが呟くこの台詞が、旅する今とても胸に響いている。
新しい世界を知り、そしてそれを通して元々居た世界の良さを再発見できるというのも旅の魅力の一つではないだろうか。
24年間の中で培った大切なものの殆どが日本にあり、そのすべてに感謝したくなるほど、今故郷が輝いて見える。
だがしかし、長く旅をすればするほど「住めば都」という言葉にも共感を覚えていく。
初めは知らない土地でも長く時を過ごせば居心地が良くなっていく。
どの国もそれぞれ良さがあり、また欠点がある。それは世界的に見て恵まれている日本だって同じだ。
どんな場所でも仕事を持ったり、学校へ行ったりと日々のやるべきことができて、言葉を習得したり、文化や習慣を覚えたり、また友達ができたり恋人ができたり、その結果家族ができたりなんかもすれば、色々な障害があったとしても多分どんな国もその人の生きていく場所へと変わっていく。
「住めば都」という言葉には利便性という意味だけではなく、人が人に求められることによって生まれる、精神的な居心地の良さみたいなニュアンスも含まれているのではないだろうか。
つまり自分を必要としてくれる人がいる場所が、自分の居場所になっていく。
だから今の私は、帰りを待っていてくれる人たちがいる日本が居場所だ。
しかし、同じ旅をしていても人それぞれ事情は違う。
「戻る場所はここだ」と気づいた私がいるとするならば、「戻る場所はないから探しに出た」という人もいる。
旧ユーゴスラビアの小国、マケドニアで私が出会った不思議な旅人はそんな人だった。
世界一奇妙な街という噂を聞きつけ訪れた首都のスコピエ。
観光招致目的に建てられた、社会主義風の奇妙な銅像が数十メートル置きに建ち並ぶ街並みは一言で言えば「異様」だ。
そして変な銅像を見て笑うのが好きな私としてはマストな都市なのだ。
旧ユーゴスラビアから、周辺国が次々と武力衝突で独立したり、内戦に突入する中、このとき唯一完全無血の独立を果たした国がマケドニアだそうだ。
内戦の傷跡が深く残るボスニアや、また現在もセルビアと緊張状態にあるコソヴォを訪れた後で、精神的にどこか張りつめた気分だった私をリラックスさせるような平和な空気がそこには流れていた。
この日もいつものように最安値の宿にチェックイン。
すると突然「日本人ですか?」と流暢な日本語で話しかけてきたのは、50代後半くらいの韓国人のおじさんだった。
その人は昔日本で仕事をしていたらしく、驚くほど日本語が堪能だった。
「長く旅しているんですか?学生さんですか?」と聞くので 「いいえ、仕事を辞めて旅しています。」と答えた。
するとその人は異常なくらい大袈裟に驚き、「ええー!仕事辞めたんですか?!すごいな~私だったら絶対仕事は辞めないですねぇ」と言い放った。
そして畳み掛けるように「仕事を辞めて旅だなんて私にはできないな~。なんで辞めたんですか?」と言われた時、私はこの人の言葉の裏に隠されているものに気づいた。
仕事を辞めて旅する人なんて今の世の中、日本にも韓国にも沢山いる。
現に道中で沢山の韓国人長期旅行者に出会ってきた。だからこの人がこんなにもわざとらしい反応をするのは、賞賛と見せかけた皮肉と嫌味である。
つまり「頭を使えばいくらでも仕事をしながら旅くらいできますよー 」「そんな不安定な選択をするなんてバカなんじゃないですか?」とでも言いたいのだろう。
たしかにパソコンとネット環境さえあれば仕事ができる21世紀。人によってはそんなことも可能なのだろう。
少しイラっとしながらも「そうですね~。ずっと夢だったのでお金を貯めて辞めました~。」と笑顔で大人な対応。
「それにまだこの年齢なら再就職もできると思ったので。」としらっと付け加えてみたりして。
しかしこの人は懲りずに「すごいな~、私なら絶対辞めないですね~」としつこく言ってくるではないか。
何なんだ一体・・・。出会って15分も満たない正体不明のその人に対し、頭の中でブチッと何かが切れる音がした。
*注意*あくまでも心の声です。
「あのさー、さっきからなんだかとっても偉そうだけどあんた一体何者なわけ?
無職で旅するなんて怖くてできないって言うけれど、じゃあそういうあんたは一体どんな財テクを持っているわけ?!えっ?聞かせてもらおうじゃないの!!
なになに株式投資?それとも今流行りのアフィリエイトですか?それとも不動産を所有して家賃収入かなー?
それともどっかの社長さんだかなんだかで、優雅に第二の人生を謳歌中ってとこっすか?
散々旅行に行き尽くした結果、行く場所が無くなったからマケドニアにでも行ってみるか!ってことっすかねぇ?
だったらわざわざこんな安宿に泊まらなくても、星が四つでも五つでも付いてるホテルに泊まりゃーいいじゃねえの!!
こんな安宿で若者に絡んだって得なんか一個も無いっすよ?つーかそんなことくらいわかるよねぇ?・・・・。」
はぁ・・・・。普段は潜ませているちょっぴりヤンキーモードな私が今にもメンチを切りそうだ。MK5!!マジでキレる5秒前だぜ!!
しかし敵は想像以上に手強かった。5秒も経たぬうちに「ちょっと失礼します」と言って席を立つとオンラインで韓国語を教え始めたのだ。
おじさんは日本語以上に流暢な英語を駆使し、淡々とレッスンをスタートさせた。
しかも何やらこの人、スペイン語も中国語も話せるらしい。ますます謎は深まるばかりである。
しかし偉かろうが凄かろうが、媚びを売る気は全くない。
だからこの一癖も二癖もある謎のおじさんとは、その後宿で遭遇しても距離を置いていた。
(面白かったマケドニア映画「レボリューション・オブ・スコピエ」もう一度見たい)
(ロンドン名物の二階建てバスも走っちゃってる奇妙な街。)
(テーマは多分「親子愛」かな・・・。)
しかしスコピエ最終日、私は敵の本当の姿を知ることとなる。
宿に戻るとおじさんが夕飯の支度にとりかかろうとしていた。私は適当に挨拶し、椅子に腰かけた。
するとスーパーのレジ袋いっぱいに詰め込まれた食材の中からお米を取り出し、嬉しそうに懐かしそうに「やっぱりお米が恋しくなりますね~」と私に向かって微笑んだのだ。
それはお米を主食とする者同士だからこそ分かり合える瞬間だった。
どんなに抵抗したって、故郷の味は細胞レベルで体にも心にも染み込んでいる。
その幸せそうな表情を見た時、あんなに苦手だと思っていたこの人がなぜだか急に愛おしく思えてきたのだ。
お米をこれだけ大切に幸せそうに扱う人に悪い人はいないんじゃないかという錯覚に陥ったのかもしれない。私の中にこんなにもお米愛が強くあったとは・・・。
よく考えたら私はまだこの人のことを何も知らない。
どうして旅をしているのか、向こうには聞かれたのにこちらは聞こうともしなかった。憶測だけ立てて本当のことは何一つ知ろうとしなかった。
だから試しに「おじさんはどのくらい旅をしているんですか?」と尋ねてみたのだ。
すると「私のはもう旅ではないんです。旅はもう全部しました。」とよくわからない回答が返ってきた。
6年前に韓国を離れたおじさんは、今日まで一度も国に帰らずに旅を続けているというのだ。そして途中からそれは旅行ではなく、安住の地探しへと変化していったそうだ。
どこか物価の安い国でビジネスをし、生計を立てて暮らせる国を探しているのだという。
インドや東南アジアは衛生面や気候の面でNG。物価が安ければどこでも良いというわけではないところが、ネックになっているようだった。
話すうちにおじさんのバックグラウンドも見えてきた。
若い頃に中国やアメリカ、日本で仕事していたことがあったり、韓国でやっていたビジネスに失敗し借金を抱えたり、また成功しお金持ちになったり、奥さんや周りの人々に裏切られ人間不信に陥った過去があったりと波乱万丈。話を断片的に聞いただけでも苦労人であることが窺えた。
人生の酸いも甘いも経験し、今は色んなことから自ら遠ざかろうとしているように見えた。
金融関係に詳しかったり、語学が堪能だったりと沢山努力してきた人なのだろう。今もその知識や能力を駆使し、収入を得ては節約しながら生活しているわけだ。
その知恵と努力を素直に尊敬した。
6年も帰らず家族や友人に会いたくなったり、寂しくなったりしないのかと聞くと、「うーん、そりゃ時々は寂しいと思うことはありますけど、それでも帰りたくないんです。人間何度も裏切られたりすれば、いくら自分の国でも嫌いになってしまうんですよ。」と言った。
答えはなんとなく予測できたのにこんな質問をしたのは、この人へのちょっとした仕返しのつもりだったけど、なんだか胸が痛んだ。
しばらく話をした後、おじさんが「あなたは大丈夫。まだ若いからこれから日本でも外国でも働こうと思えばどこでもまた働けますよ。でも私みたいなおじさんは、もうどこに行ってもいらないって言われちゃうんです。だからもう自分でやっていくしかないんです。」と言った。その言葉からはどこか諦めのようなものを感じる。
心のどこかでは、安住の地なんて見つからないと思っているかもしれない。
何せ6年間だ。もう帰る場所はどこにも無いと言う。だから探し続けるしかない。
けれど終わりが見えない中を彷徨うのは、それはとても孤独な旅だ。
旅は刺激の連続だ。毎日新しい人と出会い、知らない場所に行き、何かを知ったような気になれる。
飽きたら新しい場所に行けばいい。関わりたい時だけ人と関わればいい。
その国の国民ではないのだから、見たいものだけ都合よく見て、見たくないものは見なくたって許される。
明日の仕事のことを考えて早寝しなくたっていい。好きなものを好きな時間に食べて、好きな時間に起きる。何をするにも自由気ままで縛られるものは何もない。
誰も私のことを知らないし、誰にも文句は言われない。
けれどその自由と引き換えに、今の私には心の底からくつろげる家も無ければ、おやすみと言ってくれる家族もいない。体調を崩せば、このまま死ぬんじゃないかと思うほど心細いし、胸を張れる仕事も無ければ、遊びに誘ってくれる友人もいない。
どこにも所在がないというのは、究極の自由であり、また孤独でもある。
それでも今この生活を楽しいと思えるのは、それはあくまでも時間とお金に限りのある非日常だからだ。
責任もなければ、守るものもないこの非日常が日常に変わったら、きっとそれはどこか宙ぶらりんな人生だ。
旅先で交わす「いつかまたどこかで会おう」という約束はドラマチックだけれども、「来週飲みに行かない?」と気軽に言い合える日常の尊さを旅に出て初めて知った。
「来年こそは絶対決めますよ!もう7年目になりますからね、いい加減決めないと!」とおじさんは自分に言い聞かせるかのように言った。
だから私も「ねぇモンテネグロはどうですか?あそこは治安もいいし、自然豊かで街もきれいだし。ユーロだけど物価は安めだし!」と提案した。
「モンテネグロ!たしかにあそこはいいですねー!でもな~やっぱりまだまだ高いですよ~」と言ったけれどその表情はどこか少し嬉しそうだ。
ひょっとすると道中、このおじさんとまともに関わろうとしてきた人は少ないのかもしれない。
確かに気難しくてちょっとめんどくさいタイプの人だ。
けれども時にそのめんどくささに踏み込んでみたら、面白いことが起きることもある。
敵だと思っていた人が案外自分に似ていたり、憎めない奴だったり、本当は優しい人だったりするからだ。人間臭さの塊みたいな人、私は好きだ。
「モンテネグロは高いですよ~!」とおじさんは何度も何度も繰り返している。
必要以上に人のことを詮索しようとするのも、それは誰かにも自分に踏み込んできて欲しいからだ。
人をちょっと見下したような変な絡み方しかできないのも、寂しさの裏返しと不器用さの表れだ。
人と深く関わらないって言ったって、一人で生きていけると言ったって、やっぱり本当の独りぼっちは寂しい。
そう思ったら、何度も何度もしつこくモンテネグロの話を蒸し返すこの人を無下にはできなかった。
「昨日の敵は今日の友」なのか?私はおじさんの友ではないけれど、通りすがりの旅人として、この不思議な旅人が今年こそ安住の地を見つけ、新しい人生をスタートできることを心の底から祈っている。
「There's no place like home」と思わず心の中で呟いてしまうような、そんな場所を。
私たちのティファニーで朝食を
波長が合うというのはとても不思議な現象だ。
この世界には、いくら長い時間を共に過ごしても会うたびに初対面のような気分になる人が一方、たった数時間過ごしただけなのに、またどこかで会えることを確信してしまうような人もいる。
国籍や年齢も違う。過ごした時間の長さもそれぞれバラバラだけれども、出会いと別れの繰り返しが日常の旅の中で、これからも大切にしたいと思う出会いがいくつもあった。
イタリア人のステフォニアとはロンドンの語学学校で知り合った。
初めて会った時、ウェーブがかった長い黒髪に黒い服を纏い、アイラインばっちりの大きな目と真っ赤なルージュを引いた彼女はとても綺麗でかっこよくて、まるで女優のようだと思った。
ツンとしてとっつきにくく見える外見に対し、中身はとてもシャイで気さくで聖母のように優しくて、とても落ち着いていた。けれども好奇心旺盛でお酒と音楽が好きだったためか、私たちは瞬く間に仲良くなった。
放課後公園でビールを飲み、パブに行ってはビールを飲み、授業最終日は学校の屋上でもビールを飲んだ。私たちの友情はビールと音楽で形成されたと言っても過言ではない。
彼女とは好きなものや大事にしていることがとても似ていた。
だから私がいいと思う場所にはいつも彼女を誘ったし、彼女も色々な場所に私を連れ出してくれた。
今も旅先でグッとくるお店や場所に遭遇するたびに「絶対ステフォニアも好きだろうな」と心の中でよく思う。
二人でジャズハウスへ行ったり、美術館へ行ったり、ミュージカルを見たり、背伸びしておしゃれなバーに行ってみたり。かといえば道端や公園で延々と話し込んだり、笑い転げたり、何もしないでのんびり過ごしたりすることもできる、気を使わないでいられる人。
私は彼女の包容力や誠実さ、人間性をとても尊敬している。なかなかいないこんな人。
感性が似ていて共感できることの多い彼女とは、将来の話も、恋愛の話も、難しい話も、どうでもいいくだらない話も全部できた。
お互いにロンドンに来る決断をしていなければ、一生出会うことはなかったのだと思うとそれだけで旅に出たことは大正解だったと思える。
今回初めて訪れた彼女の住むイタリアは本当に美しい国だった。多くの人が口を揃えて「良い場所だ」と言うことに、大袈裟ではなく大いに納得した。
ロンドンではラッキーなことにヴェネチア、フィレンツェ、ローマと各都市に友人ができたので、イタリアの旅は友人を巡る旅でもあった。
彼女たちから最高のもてなしを受けて、この国がますます好きになった。
美味しいご飯を食べてワインなんか飲んじゃって、絵葉書のような景色の中を歩けば、誰もがこの国に魅了されるだろう。衣食住すべてにおいて秀でている。
出会った旅人たちも芸術や建築や食に精通した人たちが多く、面白かった。
この美しい土地から数ある芸術や文化が生まれてきたことは、もう必然としか言いようがない。
「ナポリを見て死ね」という言葉があるが、「いいえ、見てしまったらもう死ねない!もう一度この国に戻るまでは」とご返答したくなるくらいだ。
イタリアを代表とする観光都市でそれぞれの友人と再会した後、私はステフォニアに会うために北イタリアの「レッジョ・エミリア」という小さな街へ向かった。
再会した瞬間から話が止まらない。ロンドンで別れてから今日までの二ヶ月間で起きた出来事をお互いにものすごい勢いで喋り尽くした。
大学を卒業したばかりの彼女は、卒業と同時に自分のアパートを引き払い、大学時代の友人宅を転々としていてスーツケース暮らし。
しかし今回短期間で借りられるアパートを探してくれて、私たちはそこで一週間過ごした。
帰国した彼女は、その時ちょうど就活真っ只中。そんな人生の大事な岐路に立っている時にも関わらず、私が来ることを歓迎してくれる彼女の懐の深さ。そして自分のずうずうしさ。
前々から聞いてはいたが、彼女はミラノで出版や広告の仕事に携わりたいのだという。
昨今どこの国でも職探しは困難を極めるが、イタリアは失業率も高く、特に仕事を得ることが難しいという。ましてや出版やメディア業界は人気の職種だ。
そんな中、エントリーシートをひたすら送っては面接のアポイントが来るのを待つ日々に彼女は疲れ果てていた。だから私が来るのは気分転換になるなんて優しいことを言ってくれた。
レッジョ・エミリアは、パルマやボローニャ、そしてミラノにも近く、連日彼女は私を色々な場所へ連れて行ってくれたけど、二人でいればお酒を飲みながらひたすらお喋りしているだけで時間は過ぎていく。だから観光名所なんてそっちのけ。でもそれこそが私たちらしい過ごし方。
彼女の友人たちとも沢山会った。皆が彼女の人間性にとても惹かれていて、大切にされていることが伝わってくる。大好きな友人に大切な人が沢山いることは、私を幸せな気分にさせた。
最終日、私たちは日帰りでミラノへ行った。早朝に出発し列車で2時間。
到着したミラノは大都会の忙しい日常が広がっていた。
洗練された街に洗練された人々が行き交う中、煌煌と輝く白い巨大なドゥオモが貫録を放ちながら建っているのを見た時、胸がときめいた。やっぱり大都会が大好きだ。
彼女は7年前に大学に通うため、故郷の南イタリアからレッジョ・エミリアに上京してきた。その頃から時々ミラノへ来るたびに訪れる場所があると言う。
「ここは私にとってのティファニーなんだ」そう言って連れて行ったくれたのは、ミラノの中心地に佇む老舗デパートだった。
「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘップバーンが演じたホリーにとってのティファニーのように、女性なら誰しも自分にとってのティファニーがあるのではないだろうか。
勇気が欲しい時、新しい自分になりたい時、私たちのティファニーはそっとエスコートしていつも元気をくれる。
上京したばかりの頃は、お金が無いからここに来ても何も買えないという現実を突きつけられ、悲しい気分になって立ち去ることばかりだったという。
しかし年齢を重ねるにつれ、仕事で得た少しばかりのお金で小さい小物や口紅など、何か小さなものを一つだけ買って帰れるようになった時、この場所が自分にとってのティファニーになったそうだ。
その頃からいつかミラノに住んで働くことが彼女の夢になった。
子供の頃には味わえなかった大人の楽しみを私たちは少しずつ知り始める年齢になってきている。大人になることで失ったものも沢山あるけれど、失ったもの以上にもっともっと楽しいことを知り始めている。
先日彼女は、初めてここで念願だった靴を買ったそうだ。とても奮発したらしい。
その靴は今、彼女の仕事探しの相棒になっている。ミラノで買ったその靴が彼女をミラノへと導いてくれる日はそう遠くないだろう。
二人してうっとりしながら靴や洋服を手にとっては、可愛くない値段を見て無言で元に戻すという行為を何度も繰り返し、私たちはため息混じりに屋上へと向かった。
いつも一通り見終わると、景色を一望できる屋上の喫煙所で一服してから帰るのが定番コースだそうだ。
彼女にもらった煙草を一本吸いながら目の前に広がる大都会ミラノの景色を眺め、私は漠然と日本に帰国した後のことを考えていた。
最終列車ギリギリまでミラノを堪能した。彼女がこの街を好きなように、私もこの街が好きだと思った。忙しい場所だけど、可能性も刺激も希望もここには詰まっている。
いつか彼女がミラノに住むことになったら、またここへ来よう。
彼女とは、また何度でも会える気がしている。イタリアでだって、日本でだって絶対に。
ちょうど二ヶ月ほど前、ステフォニアから連絡がきた。
「仕事が決まり、ミラノで働き始めた」と。
「ミラノは超最高だけど、超大変!!!混乱してる!!!」と泣き笑い顔の絵文字と共に送られてきたけれど、私にはわかる。
彼女のこれからがもっともっと楽しいものになっていくことを。
だってこんなにもあの街が似合う女はいない!
ミラノの街角で煙草を吸いながら、誰かと電話している彼女の姿が浮かんだ。
最高にかっこいい彼女に似合う街はやっぱりここしか無いと思う。
近況報告がまるで自分のことのように嬉しかった。
彼女は前進した。さて次は私の番だ。
日本に帰ったら私もまた新しい生活をスタートさせなければならない。
どうなるかわからない。勤労こそが美徳であるようなこの国で、散々遊び歩いてきた人間に社会は甘くないことくらい想像がつく。
旅に出たところで別に大きく何かが変わるわけじゃない。これっぽっちもすごいことなんかしていないし、履歴書に追加できることなんか何一つない。
けれども道中で出会った世界中に散らばる友人たちからもらった大きな刺激が、確実に今の私を動かしている。
彼や彼女たちと再び会える日を夢見て、私は自分の在るべき場所をもう一度日本で探そう。
そして近い将来、ステフォニアが日本へ遊びに来たら今度は私のティファニーへ連れて行こう。
シックな服を着て、ハイヒールを履いて、私の大好きな東京の街を一緒に歩きたい。
彼女とだったらお気に入りのジャズハウスも、ガード下の渋い居酒屋も、おしゃれなデパートも、活気溢れる下町散策も全部がもっともっと楽しいはずだ。
その時のことを想像してみたら、びっくりするほど未来は明るい。
終わりではなく、始まり
ベルリンから鉄道に乗り、次の目的地であるポーランドへと向う。
国境に差し掛かった時、列車に乗り込んできた国境警備隊の制服姿と佇まいが、まるで映画のワンシーンを見ているかのようでワクワクした。
あなたはポーランドと聞いて、まず何を思い浮かべるだろう。
失礼だが、ドイツやフランスのようにパッと何かが浮かぶメジャーな国ではないと思う。代表的なところで言えば、ショパンが生まれた国だそうだ。
キュリー夫人やコペルニクスも同郷らしいが、いまいちピンとこない。
これらの歴史上の人物は、小学生なら誰もが一度は手にしたことのある、伝記漫画でのお馴染みのラインナップだ。
ここにナイチンゲールや野口英世、ベートーベン辺りが加われば完璧なキャスティングであろう。
しかし不思議なのは、図書室で食い入るように読んだ割に、彼らがどんな一生を送ったのかが思い出せないこと。
彼らの生涯についてなら、ぜひ現役の小学生に説明してもらおう。それが一番確実だ。
(リアル”世界の車窓から”)
(スターリンからのありがた迷惑な贈り物である街のランドマーク。ワルシャワ市民からは大不評らしい。)
(ワルシャワは第二次大戦で壊滅状態になったため、新しい建物ばかり。)
(安くて旨すぎるポーランド名物の”ザピカンカ”。)
(人生初のシナゴーグ。教会やモスクに比べるとかなり質素な作り。)
(「失われたものの復興は未来への責任である」という理念の下、戦後市民の力で破壊前の状態に再建されたワルシャワの旧市街。その意志に本当に感動した。)
(コペルニクス像と美女。ポーランドは美女率がとんでもなく高い!)
実はポーランド、今回の旅の中で絶対に外せない国だった。かれこれ10年以上前からずっと訪れてみたい場所があったのだ。
それは「アウシュビッツ強制収容所」である。あまりにも有名な場所なので今更説明する必要はないだろう。
この場所を最初に知ったのは、小学3、4年生の頃だったと思う。
我が家には、寝る前に好きな本を選び、母に読みきかせをしてもらってから眠るという習慣があり、それは幼少期から小学校中学年くらいまで続いた。
成長するにつれ絵本からは卒業し、だんだん分厚くて挿絵のない、いわゆる読み物を毎晩数ページずつ読んでもらうようになっていった。
そんなある日、アウシュビッツに関する本を読んでもらう機会があった。
今では本の題名も、詳しい内容も忘れてしまったが、数名の日本人がアウシュビッツ強制収容所を訪問するという、ルポルタージュ的なものを子供向けに出版したものだったと思う。とにかく怖くて怖くて仕方がなかった。その本に書かれていた内容は、私に強烈なダメージを与えた。いわゆるトラウマってやつだ。
そしてそれは私が初めて触れた、日本以外の国の戦争の話であった。
図書館で借りたこの本を、なぜ選んだのかは覚えていない。私が関心を示したからなのか、母が私に伝えたかったからなのか。おそらくそのどちらでもあったと思う。
とにかく、母と私の間には「まだ小さいから知らなくてもいい」という考えは存在しなかったし、私も随分と知りたがり屋な子供だったので、幼い頃から曾祖母の戦争体験を母から聞いたり、原爆や沖縄戦に関する本を読んだりと、戦争というのものに触れる機会は多かった。
怖いという感情は抱きつつも、知りたいという欲求が勝ってしまう。
母はそんな私に対して子ども扱いせず、いつも丁寧に説明してくれた。
この頃から戦争に関して、目を背けてはいけないと思ってずっと生きてきた。
毎年8月の二週目辺りは、テレビをつければ何だか明るくて楽しいだけの夏休みではなかったし、日本の夏には戦争の暗い記憶が潜んでいることを子供ながらに感じていた。
何冊もの本を読むよりも、テレビや映画で学ぶよりも、自分の目で見たい。
大人になり現地に出向くことが可能になった今、念願の訪問なのだ。
(有名な入口。「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」の標語。)
(脱走を防ぐため有刺鉄線には電流が流れるようにできていたそうだ)
(使用済みの毒ガスの缶とガス室へと続く焼却炉)
(没収された靴や鞄や家財道具。「新天地への引っ越し」だと告げられた人々が一様に大切なものを持ってここに連れてこられた。)
正式名称「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」は、ポーランドの南部、オシフィエンチムという郊外の街にあり、見学したこの日も世界中から沢山の人々が訪れていた。ガイドも何ヵ国語にも分かれている。
館内のガイドの方たちは、主観を取り除き、脚色せずに伝えることをモットーにしていると言い、決して感情的にならず、ここで起きた事実を淡々と、しかし非常に丁寧に説明してくれた。
いつらかの予備知識はあったものの、訪れなければ知ることができなかった数々の事実があった。
例えば、当初この場所は、ナチスに反抗するポーランド人の虐殺を目的としていたが、時が経つにつれ、ヨーロッパ中のユダヤ人を中心とし、他にも同性愛者や政治犯、ジプシー、精神障害者、ソ連の捕虜、聖職者なども送り込まれていたこと。
また収容所内は、人間の心理というものが徹底的に追求されていた。
同じ収容者の中でも監視役などの役職を与え、優劣をつけて待遇を変えることにより、暴動を起こさせないようにする工夫や、職員の精神的な罪悪感を逃れる為、ガス室での一連の行為をユダヤ人自身に行わせていたこと。
他にも執行側の精神的な苦痛を考慮して、様々な作業が単純労働化されていたりと、想像を絶する事実に何度も背筋が凍った。
極限の状態に追い込まれた人間を、コントロールすることの簡単さを理解した上でこの場所は成り立っていたのだ。
また敗戦間近、証拠隠滅のためナチスは多くの資料を急いで処分したそうだ。展示されているものは処分から免れた本当に貴重な資料である。
数々の展示の中で、収容者の顔写真だけが何十枚も展示されている廊下があった。
収容所が稼働し始めた初期の頃、資料としてすべての収容者の顔写真が撮影されたらしい。私はそこからしばらく動けなかった。
彼らが味わった屈辱を想像した。髪を剃られ、囚人服を着せられ、名前と引き換えに与えられた番号を刺青として体に刻まれる。そこには正当な理由なんてない。「ユダヤ人だから」である。
彼らは何を思いながらカメラの前に座り、レンズを見つめたのだろうか。
写真に写る彼らの目から、怒りや嘆きは読み取れなかった。その目はただまっすぐレンズを見つめていた。それが非常に悲しかった。
ナチスが行った「ユダヤ人絶滅計画」。まるで害虫でも駆除するかのような軽くて悍ましい言葉だ。
三時間ほどの見学を終え、精神的な疲労は感じているものの、当初想像していたよりもずっと、自分自身が冷静なことに気づいた。
もちろんここで起きたことを直視するのは、本当に恐ろしかったし、苦しかった。
当時の姿のまま残された建物を見学するたび、実際にここで沢山の人が亡くなったのかと思うと足がすくんだ。
けれども数々の悍ましい出来事を、自分と遠い世界の昔話だとは思わなかった。
この収容所を稼働させていたのは、悪魔でも化け物でもなく、私と同じ人間だった。
こんな酷いことができる奴は人間なんかじゃないと思う自分と、いざとなれば周りに飲み込まれ、良心なんか簡単に捨てることができてしまう人間の弱さを知っている自分がいた。
ここで起きたことは、何か小さなきっかけで、いつでもどこでも再び起こりうるだろう。
実際にアウシュビッツ後の世界でも、場所や人種や方法を変えて似たようなことが繰り返されてきた。第二、第三のアンネ・フランクは世界中にいる。
決してあの時代が特別だったわけではない。閉塞感が漂い、内向きになっているところ、異質だと感じるものや不利益だと思うものを徹底的に排除しようとする動き、それは今の世界と被るところでもある。
いつの間にか自分の意思とは違う方向に流され、正しいと思う自分でいられなくなってしまうこと、もはや自分の意思が何だったかさえも忘れてしまうこと、それが一番恐ろしいことなのかもしれない。
果たして、自分は世の中の大きな波に飲み込まれないと言い切れるだろうか。それはその時になってみないとわからないと誰もが言うだろう。私もそう思う。
でもその時にはもう手遅れで、取り返しのつかない方向へ進んでいってしまうのだと、この場所は私たちに訴えかけているように感じた。
収容者の数が増え、とうとうアウシュビッツだけでは間に合わなくなり、大至急建設された第二収容所だ。
この日は夏の終わりに吹く気持ちの良い風と、青々とした緑が広がり、辺りは皮肉なほど美しい景色が広がっていた。
この場所で昔、悍ましいことが起きていたなんて誰も想像がつかないくらいだ。
きっと70数年前にも、今日と同じように風が心地良く、緑が美しい日があったに違いない。
綺麗なものを綺麗と感じ、「綺麗」と素直に口に出せる自由を本当に幸せに思う。
この幸せは、誰にも奪われてはいけないものなのだ。
存在を知った時から、いつか絶対に行こうと思っていた「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」。
知識を詰め込んで訪れたい。いや、訪れなければいけないとずっと思っていた。
そしてここに来れば、自分の中で何かが完結する気でいた。だけどそれは間違いだ。
ここに来たことは、終わりではなく、始まりでしかなかったのだ。
人間は悲しいくらい何度も同じ過ちを繰り返す生き物だ。だからこそ何度だって私たちは過去から学び、考える。必要なのは涙を流すことではなく、考えることなのだ。