おんなはつらいよ 

世界の国からこんにちは

終わりではなく、始まり

 ベルリンから鉄道に乗り、次の目的地であるポーランドへと向う。

国境に差し掛かった時、列車に乗り込んできた国境警備隊の制服姿と佇まいが、まるで映画のワンシーンを見ているかのようでワクワクした。

あなたはポーランドと聞いて、まず何を思い浮かべるだろう。

失礼だが、ドイツやフランスのようにパッと何かが浮かぶメジャーな国ではないと思う。代表的なところで言えば、ショパンが生まれた国だそうだ。

キュリー夫人コペルニクスも同郷らしいが、いまいちピンとこない。

これらの歴史上の人物は、小学生なら誰もが一度は手にしたことのある、伝記漫画でのお馴染みのラインナップだ。

ここにナイチンゲール野口英世、ベートーベン辺りが加われば完璧なキャスティングであろう。

しかし不思議なのは、図書室で食い入るように読んだ割に、彼らがどんな一生を送ったのかが思い出せないこと。

彼らの生涯についてなら、ぜひ現役の小学生に説明してもらおう。それが一番確実だ。

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(リアル”世界の車窓から”)

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スターリンからのありがた迷惑な贈り物である街のランドマーク。ワルシャワ市民からは大不評らしい。)

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ワルシャワは第二次大戦で壊滅状態になったため、新しい建物ばかり。)

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(安くて旨すぎるポーランド名物の”ザピカンカ”。)

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(人生初のシナゴーグ。教会やモスクに比べるとかなり質素な作り。)

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f:id:junoonuj:20170330094856j:plain(「失われたものの復興は未来への責任である」という理念の下、戦後市民の力で破壊前の状態に再建されたワルシャワの旧市街。その意志に本当に感動した。)

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コペルニクス像と美女。ポーランドは美女率がとんでもなく高い!)

 実はポーランド、今回の旅の中で絶対に外せない国だった。かれこれ10年以上前からずっと訪れてみたい場所があったのだ。

それは「アウシュビッツ強制収容所」である。あまりにも有名な場所なので今更説明する必要はないだろう。

この場所を最初に知ったのは、小学3、4年生の頃だったと思う。

我が家には、寝る前に好きな本を選び、母に読みきかせをしてもらってから眠るという習慣があり、それは幼少期から小学校中学年くらいまで続いた。

成長するにつれ絵本からは卒業し、だんだん分厚くて挿絵のない、いわゆる読み物を毎晩数ページずつ読んでもらうようになっていった。

そんなある日、アウシュビッツに関する本を読んでもらう機会があった。

今では本の題名も、詳しい内容も忘れてしまったが、数名の日本人がアウシュビッツ強制収容所を訪問するという、ルポルタージュ的なものを子供向けに出版したものだったと思う。とにかく怖くて怖くて仕方がなかった。その本に書かれていた内容は、私に強烈なダメージを与えた。いわゆるトラウマってやつだ。

そしてそれは私が初めて触れた、日本以外の国の戦争の話であった。

図書館で借りたこの本を、なぜ選んだのかは覚えていない。私が関心を示したからなのか、母が私に伝えたかったからなのか。おそらくそのどちらでもあったと思う。

とにかく、母と私の間には「まだ小さいから知らなくてもいい」という考えは存在しなかったし、私も随分と知りたがり屋な子供だったので、幼い頃から曾祖母の戦争体験を母から聞いたり、原爆や沖縄戦に関する本を読んだりと、戦争というのものに触れる機会は多かった。

怖いという感情は抱きつつも、知りたいという欲求が勝ってしまう。

母はそんな私に対して子ども扱いせず、いつも丁寧に説明してくれた。

この頃から戦争に関して、目を背けてはいけないと思ってずっと生きてきた。

毎年8月の二週目辺りは、テレビをつければ何だか明るくて楽しいだけの夏休みではなかったし、日本の夏には戦争の暗い記憶が潜んでいることを子供ながらに感じていた。

何冊もの本を読むよりも、テレビや映画で学ぶよりも、自分の目で見たい。

大人になり現地に出向くことが可能になった今、念願の訪問なのだ。

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(有名な入口。「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」の標語。)

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(脱走を防ぐため有刺鉄線には電流が流れるようにできていたそうだ)

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(使用済みの毒ガスの缶とガス室へと続く焼却炉)

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(没収された靴や鞄や家財道具。「新天地への引っ越し」だと告げられた人々が一様に大切なものを持ってここに連れてこられた。)

正式名称「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」は、ポーランドの南部、オシフィエンチムという郊外の街にあり、見学したこの日も世界中から沢山の人々が訪れていた。ガイドも何ヵ国語にも分かれている。

館内のガイドの方たちは、主観を取り除き、脚色せずに伝えることをモットーにしていると言い、決して感情的にならず、ここで起きた事実を淡々と、しかし非常に丁寧に説明してくれた。

いつらかの予備知識はあったものの、訪れなければ知ることができなかった数々の事実があった。

例えば、当初この場所は、ナチスに反抗するポーランド人の虐殺を目的としていたが、時が経つにつれ、ヨーロッパ中のユダヤ人を中心とし、他にも同性愛者や政治犯、ジプシー、精神障害者ソ連の捕虜、聖職者なども送り込まれていたこと。

また収容所内は、人間の心理というものが徹底的に追求されていた。

同じ収容者の中でも監視役などの役職を与え、優劣をつけて待遇を変えることにより、暴動を起こさせないようにする工夫や、職員の精神的な罪悪感を逃れる為、ガス室での一連の行為をユダヤ人自身に行わせていたこと。

他にも執行側の精神的な苦痛を考慮して、様々な作業が単純労働化されていたりと、想像を絶する事実に何度も背筋が凍った。

極限の状態に追い込まれた人間を、コントロールすることの簡単さを理解した上でこの場所は成り立っていたのだ。

また敗戦間近、証拠隠滅のためナチスは多くの資料を急いで処分したそうだ。展示されているものは処分から免れた本当に貴重な資料である。

数々の展示の中で、収容者の顔写真だけが何十枚も展示されている廊下があった。

収容所が稼働し始めた初期の頃、資料としてすべての収容者の顔写真が撮影されたらしい。私はそこからしばらく動けなかった。

彼らが味わった屈辱を想像した。髪を剃られ、囚人服を着せられ、名前と引き換えに与えられた番号を刺青として体に刻まれる。そこには正当な理由なんてない。「ユダヤ人だから」である。

彼らは何を思いながらカメラの前に座り、レンズを見つめたのだろうか。

写真に写る彼らの目から、怒りや嘆きは読み取れなかった。その目はただまっすぐレンズを見つめていた。それが非常に悲しかった。

ナチスが行った「ユダヤ人絶滅計画」。まるで害虫でも駆除するかのような軽くて悍ましい言葉だ。

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三時間ほどの見学を終え、精神的な疲労は感じているものの、当初想像していたよりもずっと、自分自身が冷静なことに気づいた。

もちろんここで起きたことを直視するのは、本当に恐ろしかったし、苦しかった。

当時の姿のまま残された建物を見学するたび、実際にここで沢山の人が亡くなったのかと思うと足がすくんだ。

けれども数々の悍ましい出来事を、自分と遠い世界の昔話だとは思わなかった。

この収容所を稼働させていたのは、悪魔でも化け物でもなく、私と同じ人間だった。

こんな酷いことができる奴は人間なんかじゃないと思う自分と、いざとなれば周りに飲み込まれ、良心なんか簡単に捨てることができてしまう人間の弱さを知っている自分がいた。

ここで起きたことは、何か小さなきっかけで、いつでもどこでも再び起こりうるだろう。

実際にアウシュビッツ後の世界でも、場所や人種や方法を変えて似たようなことが繰り返されてきた。第二、第三のアンネ・フランクは世界中にいる。

決してあの時代が特別だったわけではない。閉塞感が漂い、内向きになっているところ、異質だと感じるものや不利益だと思うものを徹底的に排除しようとする動き、それは今の世界と被るところでもある。

いつの間にか自分の意思とは違う方向に流され、正しいと思う自分でいられなくなってしまうこと、もはや自分の意思が何だったかさえも忘れてしまうこと、それが一番恐ろしいことなのかもしれない。

果たして、自分は世の中の大きな波に飲み込まれないと言い切れるだろうか。それはその時になってみないとわからないと誰もが言うだろう。私もそう思う。

でもその時にはもう手遅れで、取り返しのつかない方向へ進んでいってしまうのだと、この場所は私たちに訴えかけているように感じた。

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アウシュビッツの近くに建てられているビルケナウ強制収容所

収容者の数が増え、とうとうアウシュビッツだけでは間に合わなくなり、大至急建設された第二収容所だ。

この日は夏の終わりに吹く気持ちの良い風と、青々とした緑が広がり、辺りは皮肉なほど美しい景色が広がっていた。

この場所で昔、悍ましいことが起きていたなんて誰も想像がつかないくらいだ。

きっと70数年前にも、今日と同じように風が心地良く、緑が美しい日があったに違いない。

綺麗なものを綺麗と感じ、「綺麗」と素直に口に出せる自由を本当に幸せに思う。

この幸せは、誰にも奪われてはいけないものなのだ。

存在を知った時から、いつか絶対に行こうと思っていた「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」。

知識を詰め込んで訪れたい。いや、訪れなければいけないとずっと思っていた。

そしてここに来れば、自分の中で何かが完結する気でいた。だけどそれは間違いだ。

ここに来たことは、終わりではなく、始まりでしかなかったのだ。

人間は悲しいくらい何度も同じ過ちを繰り返す生き物だ。だからこそ何度だって私たちは過去から学び、考える。必要なのは涙を流すことではなく、考えることなのだ。