ウェルカム・トゥ・サラエボ
かつてこの世界に「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と呼ばれる多様性に富んだ国があった。
七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。
私がその存在を知った時、既に「旧ユーゴスラビア」と呼ばれ、その得体の知れない名前の響きが子供心に不気味であった。
それから十数年後、私は旧ユーゴの一国であるボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪れる。
9月に差しかかった東欧は夏に終わりを告げ、秋の気配がすぐそこに。
曇った薄暗い空の下に建ち並ぶ団地群。窓からは人々の生活感が漂っているのに、外壁には無数の銃弾の痕。
「とんでもない所に来てしまった」そこだけ時が止まっているような景色を見て、最初に思ったことだった。
サラエボは歴史に翻弄された街だ。ビザンツ帝国、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国と支配者が変わるたびに、キリスト教、イスラム教と宗教も変化してきた。
ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島の中でも、第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件が起きたこの地は、争いの矢面に立たされてきた悲劇的な場所でもある。
しかし歴史が作り上げた多様性に富んだ文化は、この国の持つ複雑さの象徴でありながらも、私たちを魅力する。
教会、モスク、シナゴーグが同じ地区に点在する街並みは、まさに文明の十字路。文化が交じり合ってきたことを肌で感じる。
旧市街に残るオスマン建築は、大好きなトルコを彷彿とし、立派なカトリック大聖堂を横切れば、やはりここはヨーロッパなのだと思い出す。
街を囲む緑豊かな山々は新鮮な空気を運び、移動疲れの私を癒した。
サラエボは異色の旅行情緒を体験できる素朴で良い街だ。
しかしこの場所は、ユーゴスラビア連邦が解体されていく中で勃発し、1992年から95年の間にボスニア全土で20万人以上の犠牲者を出したボスニア紛争により、再び悲劇の舞台となる。
私はこの内戦についてもっと知りたくて、「GALLERY 11/07/95」という資料館を訪れた。
山に囲まれたサラエボはセルビア勢力に包囲され、町は砲撃や銃撃に遭い、約1万2000人の死者を出した。その85%は市民だったという。
86年に開催されたサラエボ冬季オリンピックからわずか数年後。こんな世界になるなんて誰が想像しただろう。
各地で行われていた民族浄化の中でも、スレブレニツァの虐殺に関する資料や写真、被害者の証言映像に体力も気力も奪われていく。
今でも家族の遺骨を探している人々がこの国には沢山いる。
吐き気すらする重い気分の中、私は3時間近く館内にいた。
そして最後に見た「Miss Sarajevo」というドキュメンタリーを通して、絶望のような世界の中にも些細な日常が存在し、普通じゃない環境の中を普通に生きようとする人々がいたことも知った。
あるジャーナリストが、戦場となったサラエボで生活する市民を取材した映像だ。
爆撃音が響く中、地元の女子大生が案内した先は秘密の地下室。
ここは学び舎を爆撃された学生の学びの場となったり、時にはクラブやライブハウスへと姿を変える。
人々は踊り、音楽を楽しむ。ミス・サラエボコンテストだって開催する。
そこには、たとえ戦火の中であろうと青春を謳歌しようとしている若者たちの姿があった。
壊れた車の中で流行歌を合唱し、友人に囲まれはしゃぐ、13歳くらいの活発な少女はとても聡明で、一生懸命な英語で自分たちの置かれている状況を伝える。
「私はムスリムだからモスクに行く。でも時々教会にも行く。神様は二人とか三人とかじゃなくて神様は神様だ。」と話し、自信に満ちた表情で「God is god」と言い放つ彼女はヒーローのようだ。
多感な年頃を戦場で過ごす少女の目に、この争いはどう映ったのだろう。
不条理の中でそれでも人生を謳歌しようとすることは、暴力に対する彼らなりの精一杯の抵抗だったのかもしれない。
けれども現実は残酷だ。戦況はますます過酷になり、最悪の状態で終戦を迎える。
廃墟化した街の中で憔悴しきった少女は最後の取材を受けていた。
「沢山のことが変わってしまった。友達も沢山死んでしまった。今は本当に最悪の状況。なんて言っていいのかわからない。本当にごめんなさい。今は何をすればいいのかわからない。」
戦争は容赦なく何度も若い健気な心を踏みにじったに違いない。
しかし最後にはジャーナリストを気遣い、「本当にありがとう!あなたたちに幸せが訪れますように!」と笑顔で手を振り、気丈に振る舞ってみせた少女がやっぱり私にはヒーローに見えた。
今彼女がどんな風に成長し、どんな暮らしをしているのかはわからない。
戦後、民族のアイデンティティの確立を謳い、強い信仰心を持つ人が増えたという。
民族意識は高まり、所属民族の違う隣人同士が仲良く暮らしていた時代には結局戻らなかった。彼女は今でも「God is god」と思うだろうか。
皆それぞれ信じる神は違っても、どんな神様も神様であるのだと。
こんなにもシンプルで複雑な言葉はない。
戦後20年も経てば、街には立派なショッピングモールが建ち、人々は西欧資本の大型スーパーや、ドラッグストアで自由に消費を楽しんでいる。
かつて昼夜問わず女も子供も関係なく、見つかった者は即座に射撃されたという通称スナイパー通りは、今はおしゃれをした若者が闊歩する。
銃痕残る建物以外にこの街で戦争を感じるものはない。けれど人の心はどうなのだろうか。
ある日、宿のロビーで受付のお兄さんに「中国語話せる?」と話しかけられた。昨夜チェックインした中国人団体客に英語が通じず困っているらしい。
「ごめん、私日本人なの。」と答えると「君は日本から来たのか!」と嬉しそうに私の近くに座った。
そして興奮気味に「日本人に会ったら質問したかったことがある!なあ、ヤクザって本当にいるのか?!」とド定番な質問をしたのである。
旅先で何回この質問をされただろうか。皆、YAKUZA”と”SAMURAI”が大好きだ。
しかし続く彼の質問は想像の斜め上をいく。
「日本の神風特攻隊ってすごいよな。必ず死ぬんだぞ?どうして彼らはヘルメットを被る必要があるのか?行ったら戻ってこないのに。」「ヒロシマについても知ってるよ。行ったことはある?今の広島はどうなっているの?」と神妙な面持ちで聞いたのだった。
私たちはしばらく日本の戦争の話をし、その後ボスニアの話へと変わっていった。
私が昨日行った資料館のことを話すと、彼は苦笑いをし「あそこは主にスレブレニツァのことばかりだからね。でもサラエボだって本当に悲惨だったんだ。」と言った。
そして、「でも正直そのことについて話すことに疲れているんだ。ここに来る人は皆、戦争のことを尋ねるけど僕は少し疲れている。もちろん僕たちは自分たちの国で起きたことを覚えているし、これからも絶対忘れない。でも毎日毎日そのことについて考えるのはとても疲れるんだ。例えば君が毎日ヒロシマ、ナガサキについて聞かれたらどう思う?」と言った。
私の知っている戦争は体験していない歴史だ。けれど彼の知っている戦争は歴史ではなく体験なのだと思い知る。
現在のボスニア・ヘルツェゴビナは、ボスニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人主体のスルプスカ共和国という現状二つの構成体により国が成り立っている。
お互いに独自の大統領、立法府を持っていて、郵便制度をはじめ細かいルールも違う。一つの国土に二つの国があるような状態だ。
そしてその境界線に位置するサラエボを起点に、民族の住み分けが行われている。
けれどバスでスルプスカ共和国側に行った時、境界線がどこにあるのかわからなかった。セルビア人もボスニャク人もクロアチア人も私の目には同じ顔に映る。
言語だって方言程度にしか違いはない。民族主義を理解することは、日本で生まれ育った私には非常に難しいことだった。
「ボスニャク人のあなた達がスルプスカ共和国に行くことは可能なの?」と尋ねると、それは可能だという。しかし「何かトラブルが起こるかもしれないから行くことはない。」と言った。
昔は境界線に検問所があったが、今は存在しないため自由に行き交いできる。
実際ボスニア側にある旧市街や街の中心部では多くのセルビア人が働いているという。だからお互いが全く交じわらずに暮らしているわけではない。
しかし彼がむやみにセルビア側に行かないことからもわかるように、両者には今も大きなしこりがあり、本質的な解決に至っているわけではなく、ただただ歪な状態で国が存在しているのだ。
今はお互いに挑発することなく静かに過ごしているが、その緊張感はずっとあり、着火しないようにしているだけで火種は充分に持っているのだ。
「ここに来る前に紛争のことについて調べた。知らないことだらけだったからここに来てからも勉強した。大きなショックを受けたし、とても恐かった。多分私は日本に帰ったら家族や友達にここで知ったことを話すと思う。だけどね、それだけじゃなくてボスニアが自然豊かでとてもきれいな場所で、親切な人が沢山いるってことも話すつもりだよ。」と私は言った。
暗い過去を感じながらも、少しずつ復興し発展している街並み。歴史遺産と呼べる建築や、美しい自然を満喫した。
そしてボスニア側でもセルビア側でも、沢山の親切を受けた。だから私は胸を張ってここが良い場所だと言える。
すると彼は、「そうなんだよ!確かに僕らの国は酷い歴史があった。戦争があった。でもそれだけじゃない。ここは自然が沢山あって本当にきれいな場所なんだ。お願いだ。どうかそのことを皆に伝えてくれ!」と言った。
彼にとってこの場所は、たった一つの美しい故郷だ。
「そうだ、ここで日本人向けに旅行会社をやりなよ!儲かるぜ?」とニヤリとした後、「まあ正直ここは旅行で来るには本当に良いところだね。でも住むとなったら糞みたいだよ。」と彼は言った。
「例えば?」と聞くと「それを話してたら明日の朝になっちゃうな」と笑い、「僕たちの国はとっても複雑なんだ」と言い残すとタバコを吸いに行ってしまった。
もちろんこれは彼個人の意見だ。けれども一人の名もなき若者の声に私はリアルを感じる。
美しい故郷を無条件に美しいと言えないやるせなさ。
この国に本当の意味での平和は、まだ訪れていないのだろう。
けれども少しずつ進んできたから今がある。だから過去だけではなく、この国の今を見て欲しいと思うのは、ある意味当然のことなのかもしれない。
旅行者はピンポイントでその歴史だけを見ようとする。私もその1人だ。
しかしここに生きる人々は紛争前も渦中も、終結したその日から今日までもがずっと日常の続きだ。
決して忘れたわけではない。でも人はどんな状況下だって生きていかなくてはならないし、いつまでもうずくまっているわけにはいかない。
だから訪れた者が今のこの国を知ることは、とても大事なことなのだと思う。
最終日、山の上から街を見下ろした。そこから見るサラエボはとても美しかった。
けれど見下ろす街並みで一番目立つのは墓地だ。そしてその墓標の多くが1992年から95年にかけてのものだった。
ボスニア紛争は20世紀末期に起きた出来事だ。たかだか20数年前のヨーロッパの話。それは私が生まれた年でもある。
歴史に翻弄された街に悠然とそびえたつ山々は、下界で起こる愚かな争いをじっと見つめてきたのだろうか。
「お前たち何やってるんだ?」とずっと静かに問い掛けられているのだとしたら、私たちはその声に気づかないのか、それとも気づかないふりをしているのだろうか。
いつの日か、もしこの地で再び争いの火が点いた時、この無数に広がる墓標たちが大きな大きな抑止力となり、もう誰も血を流したりしなくていい世界になって欲しい。